ローマ教皇庁にもこのような帝国主義的な心理が潜んでいることは簡単に見て取れます。たとえ、タイレルのように、「ローマは宗教のことなど気にかけていない。権力のことしか考えていないのだ」とまでは言わないとしてもです。人間がつくってきた神々とは、個々人の自尊心を寄せ集めたものであるという印象を受けることがよくあります。17世紀イングランドの詩人、ドライデンは次のように述べています。「われわれだけでは敵を打ち砕けない時に、神がわれわれの側にいてくれて嬉しい」。18世紀アメリカの神学者、ジョナサン・エドワーズは本当の意味で宗教的な高みに達していましたが、エドワーズは、「荒々しさ」を備え、「自らの服に罪人たちの返り血を浴びる」まで罪人たちを踏みつけるエホバの神を賛美していたのであり、エドワーズは神学的な帝国主義者だったのではないかと考える人もいるかもしれません。より顕著な例は、バプテスト教会を分断してきたキリスト教原理主義グループの一部のメンバーであり、このメンバーたちはキリストの再臨を、(暴君の)ネロやカリギュラがまともな人間に見えてしまうような仕方で描いています。キリストが最初に降臨した時、当時のユダヤ人たちが深く失望したことについては詳しく述べる必要はありません。ユダヤ人たちが待ち望んでいた救世主は、実際に降臨した救世主よりも、はるかにナポレオンに近い存在だったのです。
アービング・バビット『デモクラシーとリーダーシップ』試訳朗読164 (アーヴィング・バビット)

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